計算コラム

(82) 宝暦治水

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2016/ 2/22
標高400mの多度山に登ると濃尾平野から伊勢湾まで一望できる。とりわけ眼下の揖斐川、長良川、木曽川が織り成す悠久の流れと輪中の景色は美しい。この地域は古来より洪水に襲われてきた。江戸中期の宝暦4年に幕府は薩摩藩に御手伝普請として河川改修工事(宝暦治水)を命じた。いわゆる薩摩藩の力を削ぐ外様虐めである。薩摩藩家老の平田靱負は莫大な工事費と千人に及ぶ薩摩藩士の労働力を負担しながらこの難工事に挑んだ。理不尽にも幕府や地元農民の協力を得られず1年余りの工事は悲惨の極まりだった。幕府への抗議で自害61名、粗食と過酷労働で157名が病に倒れ病死32名を数えた。工事完成後、平田も多大負担の責任を取り自害する。この後、薩摩藩は藩財政を建て直し自立性を高めて明治維新の立役者へと進んだ。司馬遼太郎は武士魂が残る日本人気質を「名こそ惜しけれ」と表現している。まさに宝暦治水に携わった薩摩義士に相応しい言葉だ。昭和30年の市町村合併で新たに平田町が発足し、200年後の地元民が平田靱負の名を惜しんで町名にした。だが残念なことに平成の大合併で海津市となり平田町は廃止されてしまった。
関連リンク
[1] 参考図書「孤愁の岸」杉本苑子 第48回直木賞作品
[2] 和暦から西暦変換(年月日)